淡路人形の広がり

各地に伝わった淡路人形

さまざまな人形芝居

日本にはさまざまな種類の伝統人形芝居が今も各地で伝承されており、永田衡吉『改訂日本の人形芝居』、『生きている人形芝居』や、宇野小四郎『現代に生きる伝統人形芝居』には、各地の人形芝居が採録されている。

永田衡吉『生きている人形芝居』(1983)は、各地の伝統人形芝居を次のように分類し、伝承地を挙げている。

○くぐつ系
福岡県古表神社・大分県古要神社の神相撲、兵庫県波波伯部(ほほかべ)神社デコノボウなど十ヵ所。
○古浄瑠璃系
石川県深瀬でくまわし、佐渡の文弥人形、各地の式三番叟など二十五ヵ所。
○糸操り
東京都結城座・竹田人形座など十ヵ所。
○からくり人形
地の灯篭人形・網火など四ヵ所。
○指人形・差し人形・車人形
各地の指人形、京都府佐伯灯篭人形などの差し人形、八王子車人形など、四十二ヵ所。
○三人遣い
各地の三人遣い人形芝居、百四十一ヵ所

永田があげた伝承地(廃絶を含む)は、その後の研究によって追加訂正されるべきものも多いが、いずれにせよ、義太夫節による三人遣い人形芝居が圧倒的に多い。三人遣いは、享保十九年(1734)の「芦屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)」以降、本格的にはじまった。これによって人形の表現力は飛躍的に発展し、三人遣い人形芝居は各地に広がった。

三人遣い人形芝居の各地への伝播においては、淡路人形、または淡路人形から起こった阿波人形の果たした役割が大きい。淡路人形はすでに十七世紀から各地を広範に巡演していたが、十九世紀から阿波人形も地方興行に出るようになり、明治初中期に最盛期を迎えたという(『改訂日本の人形芝居』)。

永田衡吉は、地方の人形芝居を採訪する際の要領をあげ、次のような人形芝居は淡路系と判断できるとしている(久米惣七『阿波と淡路の人形芝居』)。
①式三番叟の翁面がある。ただし伊豆・三河のものは直接淡路の人形遣いが伝えたものではない。
②「道薫坊伝記」「巡通一札」がある。
③「奥州秀衡有鬠壻(おうしゅうひでひらうはつのはなむこ)」「軍法富士見西行」など淡路特有とされる浄瑠璃の正本が残っている。
④デコ芝居、心串、丸目、役者、千畳敷などの用語を使っている。舞台に千畳敷の構造がある。
⑤「鉄砲ざし」(仰角の大きいかしら)は、淡路系の可能性。

現在活動中の淡路系人形芝居

永田衡吉は、義太夫節による三人遣い人形芝居の伝承地を百四十一ヵ所(うち八十三ヵ所が廃絶、五十八ヵ所現存)あげている。しかしその後、さらに多くの伝承地が確認され、また廃絶したところも増えている。逆に復活した人形芝居もあり、これらの数字は大きく書きかえられなければならない。

淡路から直接・間接に伝わった人形芝居、または淡路人形の強い影響を受けている人形芝居を、ここでは淡路系人形芝居という。しかし、明白な物証がある場合はともかく、個々の人形芝居が淡路系かどうかを判断することは容易ではなく、見解の分かれるところである。

永田氏の前掲二書、「阿波の人形、淡路の人形」(『阿波と淡路の人形芝居』)、全国人形芝居サミット資料等に基づいて、現在活動中で淡路系と判断される主な人形芝居をあげる(ただし、付知(つけち)の翁舞は、現在は式三番叟のみの伝承で、古浄瑠璃系に分類されるべきものであるが、かつては外題物も上演しており、現在活動中の座の中では淡路人形伝播の最古の例であるのであげる)。この中には阿波の人形遣いによって始まったもの、またはその指導を受けているものも含まれており、正確には淡路阿波系というべきものである。淡路人形と阿波人形は芸系としては同一のものである。

現在活動中の淡路人形芝居一覧

相模(さがみ)人形芝居長谷(はせ)座 (神奈川県厚木市長谷)
およそ三百年前、淡路の人形遣いが教えたのがはじまりという。式三番叟の白式尉・黒式尉の面がある。
相模人形芝居足柄(あしがら)座 (神奈川県南足柄市内山)
享保十九年、淡路(阿波)の人形遣い夫婦が逗留し、村人に教えたという。式三番叟伝承。
追分(おいわけ)人形 (山梨県大月市笹子町追分)
「道薫坊伝記」「巡通一札」があり、十八世紀に淡路の人形遣いが来たか。大正期、淡路の人形遣いが教えた。
古田(ふるた)人形 (長野県上伊那郡箕輪町中箕輪上古田)
安永年間に淡路の市村久蔵、文政七年に吉田時蔵が来住。「道薫坊伝記」、森川千賀蔵の金看板あり。別項参照。
黒田(くろだ)人形 (長野県飯田市上郷黒田)
天明年間に淡路の吉田重三郎が来住。「道薫坊伝記」、最古の内銘かしら、天保十一年の人形舞台。別項参照。
今田(いまだ)人形 (長野県飯田市龍江)
宝永元年の初発。「道薫坊伝記」があり、記録・伝承はないが淡路の人形遣いが関わっていた可能性がある。
早稲田(わせだ)人形 (長野県下伊那郡阿南町西條)
初発は不明だが、女形の肩板に「文化八年」とある。式三番叟伝承。正月十五日に人形による神送りの神事。
安乗(あのり)人形芝居 (三重県志摩郡阿児町安乗)
淡路系式三番叟を伝承。正月二日、ニワの浜で海に向かって奉納。人形舞台も淡路阿波系。
付知(つけち)の翁舞 (岐阜県恵那郡付知町)
天和二年に淡路人形が興行したときに翁舞(式三番叟)を習い、古式を厳格に伝承する。もとは外題物も上演。
恵那(えな)文楽 (岐阜県中津川市川上(かおれ))
淡路の人形遣いによってはじまったという伝承。宝暦・天明期に名人が出たという。かしらの呼び名が淡路風。
大井(おおい)文楽 (岐阜県恵那市大井町)
昭和二十六年、名古屋の近松座のかしら(もと徳島泉谷治平座のもの)を購入して始まる。天狗久かしら多数。
半原(はんばら)人形 (岐阜県瑞浪市日吉町半原)
宝永・正徳期、淡路の人形遣いを留めて指導を受けたのが始まりという。
真桑(まくわ)人形浄瑠璃 (岐阜県本巣郡真正町下真桑)
伝承では元禄期の一人遣い(突っ込み)に初発。技芸は大阪系だが、人形舞台は舞台返しのある淡路阿波系。
冨田(とんだ)人形 (滋賀県東浅井郡びわ町富田)
天保六年、阿波の人形遣いが路銀代わりに人形一式を残したのが始まりという。鳴州のかしらがある。
和知(わち)人形浄瑠璃 (京都府船井郡和知町大迫)
慶応二年に土蔵に眠っていた人形で上演したという。文楽、淡路の指導。現在は特殊な一人遣い。
淡路人形座 (兵庫県南あわじ市南淡町福良)
吉田傳次郎座の人形道具一式を買い取る。淡路人形協会の経営で、年末を除いて年中無休で公演。別項参照。
新田(しんでん)人形浄瑠璃芝居相生文楽 (鳥取県八頭郡智頭町新田)
淡路人形の巡業によって、明治七年に初発。その後、阿波、文楽から指導者を迎える。
島田(しまた)人形 (山口県光市島田)
島田百軒といわれた氏子のうち「本頭」二十戸の世襲で伝承。大江万造・笹屋喜作のかしらあり。
寄居(よりい)座 (徳島県名西郡神山町神領)
嘉永元年の初発。もと上村都太夫座。明治二十五年頃、淡路の市川浜蔵が住み着いて指導。式三番叟伝承。
勝浦(かつうら)座 (徳島県勝浦郡勝浦町久国)
天保の大飢饉で中断。明治五年に村有となり、淡路から師匠を招く。式三番叟伝承。毎秋、犬飼農村舞台で公演。
中村園太夫(なかむらそのたゆう)座 (徳島県阿南市新野町)
文化二年の初発。岡花・西光寺地区の共有財産として伝承。式三番叟・戎舞伝承。福山佐平のかしらあり。
木沢村(きさわそん)芸能振興会 (徳島県那賀郡木沢村坂州)
明治四十年頃から本格的に活動。もと坂州共楽座。庶民的な戎舞伝承。坂州の農村舞台は県の重要有形文化財。
讃岐(さぬき)源之丞座 (香川県三豊郡三野町大見)
明治三十年頃、三好富太郎が結成。もと三好源之丞座。式三番叟・戎舞伝承。
直島(なおしま)女文楽 (香川県香川郡直島町)
江戸時代は、直島島内に五座あったが廃絶し、昭和二十三年に女性ばかりで一座を作った。式三番叟伝承。
香翠(こうすい)座デコ芝居 (香川県高松市円座町東長井)
高松藩主の親族から人形をいただき、天保四年にはじまる。円座のふくさ人形とも呼ばれたときもあった。
伊予(いよ)源之丞座 (愛媛県松山市古三津町)
淡路座の巡業に刺激を受け、興行に行き詰った座を買い取る。もと蓬莱座、九州・朝鮮半島まで巡業した。
俵津(たわらづ)文楽すがはら座 (愛媛県東宇和郡明浜町俵津)
嘉永五年に若者の善導のためはじまる。大阪・淡路から師匠を迎えた。淡路特有の「賤ケ岳七本槍」があった。
朝日(あさひ)文楽 (愛媛県西宇和郡三瓶町朝立)
明治二十二年頃の初発。三座を買い取る。大正期に衰微、昭和四年復興。淡路の若竹儀三郎・豊田穀栄らが指導。
大谷(おおたに)文楽 (愛媛県喜多郡肱川町大谷)
嘉永六年、将軍家慶の喪で吉田傳次郎座の興行が中止となり、大谷に滞在した座員が教えたのがはじまりという。
鬼北(きほく)文楽 (愛媛県北宇和郡広見町岩谷)
明治末、興行に行き詰った淡路の上村座の人形を買い取ってはじまる。もと泉人形。
伊加利(いかり)人形 (福岡県田川市伊加利)
慶応元年に一人遣い串人形で初発。北原の島屋座の人形遣いを招いて淡路系操法を修得。
皿山(さらやま)人形 (長崎県東彼杵郡波佐見町皿山)
享保十八年、大村藩内を巡業して飢饉の窮民を救ったという。阿波系の人形遣い、のち北原の人形遣いが指導。
北原(きたばる)人形 (大分県中津市北原)
「松平大和守日記」に豊前源之丞があるが関係は不明。九州の人形芝居の中心的存在。式三番叟は淡路系か。
千綿(ちわた)人形 (長崎県東彼杵郡東彼杵町千綿)
人形櫃の蓋に「寛永二年」。阿波から操りを伝承。明治中期に上村源之丞座を招く。古式かしら多く貴重。
清和(せいわ)文楽 (熊本県上益城郡清和村大平)
嘉永年間初発。のち廃絶、昭和二年に再興。清和文楽館で定期公演。座員が淡路人形座で二年間三味線修行。
柚木野(ゆのきの)人形 (宮崎県西臼杵郡高千穂町上野)
初発は不明だが、天保四年の奉加帳に起源伝承がある。阿波の人形遣いを住まわせて指導を受けた。

みちのくの淡路人形 -盛岡の鈴江四郎兵衛座-

淡路から盛岡へ

昭和六十二年七月、人形浄瑠璃研究者にとって実に思いがけない発見があった。

岩手県盛岡市の鈴江博・アイ氏宅から十七世紀にさかのぼると思われる極めて古い様式の人形と古文書類が発見され、これによって鈴江家は寛永年間に淡路の三条村から移った操師で、後に印判師を兼ねた家柄であることが明らかになったのである。盛岡鈴江家の先祖四郎兵衛の出自や寛永という年代については今しばらくの検証を要するが、十七世紀という極めて早い時代に淡路人形が盛岡にまで伝播していたことは間違いなく、三人遣い人形芝居は福島県を北限とし、東北五県にはなかったとする従来の定説を覆す発見である。

鈴江家では屋敷内に三条稲荷社を祀ってきたが、社の再建にあたって、古い棟札の解読を岩手県立博物館に依頼した結果、先祖四郎兵衛は淡路から来た操師であることがわかった。そして、民俗芸能の専門家である県立博物館主任学芸員の門屋光昭氏(現盛岡大学教授)が鈴江家伝来のつづらを調べたところ、人形、文書類が出てきたのである。門屋氏はこの発見を民俗芸能学会で発表され、「盛岡の操師四郎兵衛と淡路人形」(『民俗芸能研究』第七号、『淡路人形と岩手の芸能集団』)をまとめられ、鈴江家の人形は広く世に知れれることになった。本稿はこの門屋氏の論文に拠るところが大きい。人形芝居研究会(会長佐藤彰氏)も直ちに調査に入り、加納克己氏「盛岡・鈴江四郎兵衛人形」、斉藤徹氏「鈴江家人形第一次調査報告」(以上、『人形劇史研究』創刊号)などのすぐれた論考が次々と発表された。

鈴江家の祖、四郎兵衛の盛岡移住について、延享五年(1748)五月十五日付の「覚」は次のように書いている。

下拙先祖生国淡州三原郡三條村鈴江又五郎同弟同名四郎兵衛、盛岡御役人中様以御憐愍を、寛永十八年住居被仰付、正月四日於御本丸ニ山城守源重直公江諸芸奉入御上覧。為御吉例正月四日御城内江罷上り、道薫坊廻シ奉御壽。依之盛岡鎮守之御祭礼并御領内在々ニ迄以御慈悲を、先年より御町奉行様江奉願上候所、年々御切手被下置、渡世仕候。

また、弘化三年(1846)の棟札には、

「当社稲荷大明神寛永十五戌寅天古祖鈴江四郎兵衛藤原正盛淡路国従三條邑下時奉守処也」

とある。

これらによれば、四郎兵衛は三条村の鈴江又五郎の弟で、寛永十五年(1638)または同十八年に盛岡に移り住み、城中本丸で諸芸を源重直公の上覧に供したところ、これが慣例となって、以後毎年正月、城中で「道薫坊廻シ」(三番叟のことであろう)を勤めるようになり、領内での興行も許されたというのである。源重直公とは盛岡藩二代藩主南部重直で、蒲生氏郷の妹であった母親の影響か、上方文化を好み、「遊芸伎能の士数十人を招き、禄を賜ひ近侍たらしめ」(『南部史要』)た人物である。

鈴江家には、「道薫坊伝記」が二巻伝えられていた。四郎兵衛の寛永年間の移住は、この「道薫坊伝記」の日付「寛永十五年文月十二日」に拠った可能性も考えられるので、直ちにそれを史実とすることはできない。寛永十八年正月四日の御前操りは、今のところ傍証が得られていないのである。

門屋光昭氏の研究によれば、藩の家老の日誌「雑書」(寛永二十一年三月以降が現存)には、寛文元年(1661)以後、城内での操りの記録が出てくるが、その中には四郎兵衛の名はなく、四郎兵衛との関係は不明であるという。四郎兵衛が「雑書」に登場するのは正徳五年(1715)七月十一日のことである。

因みに、この四年前の正徳元年一月、徳島藩四代藩主光隆の弟であった蜂須賀飛騨守隆重の養女於春(おはる)が、盛岡六代藩主南部利幹に輿入れをしている。

これに先立って、元禄(1688~1704)の末期に四郎兵衛が遠野八幡の祭礼で興行したことが、『遠野古事記』(宝暦十三年・1763)に見える。

一.遠野にてあやつり・かぶきの見物芝居立候始は、延宝年中の比歟(ころか)。江戸あやつり太夫虎屋永閑を御子様方御見物に度々御屋敷え被為呼、御覧被成(中略)其後当所にあやつり・かぶきの芝居致中絶、元禄の末八幡御祭礼の時、盛岡かぶき権六座の役者共参候て、芝居を立申候。其次あやつり四郎兵衛座を役者も八幡にて芝居を立て、其外他領役者参候時も有て、芝居断絶不仕候。

これが鈴江家文書以外の最も古い記録である。これによって、四郎兵衛は少なくとも元禄期には操師としての地歩を築き、城下をはじめ領内各地で興行していたことがわかる。

藩から厚遇された四郎兵衛

こうして盛岡に本拠を置いた四郎兵衛座に対して、藩は並々ならぬ処遇を与えた。前掲「覚」と寛延元年(1748)十月付の「覚」によれば、延享五年正月に金百疋を拝領し、さらに同年六月には「御」の字を使用することが許され、宝暦三年に文化政策の見直しから使用が禁止されるまで「御操座元四郎兵衛」と称した。また、延享五年三月、江戸で芸事の見習い修行をするよう仰せがあり、江戸へ上った。

ところがこの頃になると操芝居は繁昌せず、安定した収入になる何か他の技術を身に付けたいと思っていた四郎兵衛は、藩の斡旋で印判師彦兵衛の弟子になり、印判彫りの修行をするようになる。藩主からも直々の激励を受けて技を磨いた四郎兵衛は、以後、「操座元四郎兵衛」とともに「盛岡御印判師二葉屋四郎兵衛」を名乗り、操座本と印判師を兼業する。

操座本としての四郎兵衛(二代目からは四郎佐を襲名)はどのような活動をしていたのか。幸い、興行に際して検断に提出した願を綴った「諸用書留帳」(弘化二年~嘉永三年)と「諸願書留帳」(嘉永三年~明治三年)があり、合わせて二十五年間の興行と芸人の出入りを知ることができる。

この中から、弘化三年二月八日から二十日間の予定で行われた人形操興行を見てみよう。四郎佐は前年の十二月に興行を願い出、各地から芸人を雇い入れている。人形遣いは大坂から三人、江戸から十人、合わせて十三名、大夫四名、三味線二名、囃子方三名、道具方一名の二十三名が盛岡入りした。ほとんど一座規模の芸人を雇ったわけである。この頃には座付きの役者もかなり少なくなっていたのであろう。ともかくこうして、櫓幕に掲げた「南部大操」にふさわしいだけ人員を確保した四郎佐は、張札と触れ太鼓で前人気を煽り、大泉寺で初日の幕を上げたのである。入場料は、「木戸銭五十二文、上敷銭二十二文、筵銭十四文、〆八十九文(ママ)、上桟敷三百五十文、中桟敷四百文、下舛六百文」。外題については記載がない。ところがどういうわけか、十一日目に興行差し止めの沙汰があり、芸人たちも早々に郡山に立ち去っている。福島県郡山には高倉人形、行合人形があり、従来、三人遣いの人形芝居の北限と考えられていたところである。

「諸用書留帳」、「諸願書留帳」によれば、弘化から明治までの二十五年間に本格的な操芝居が行われたのは、この興行を入れてわずか二回にとどまっている。ほとんどは他領から来た芸人による素浄瑠璃、軍談講釈、浮世噺であった。四郎兵衛座は、次第に操座本としての性格を失い、芸能プロモーターへと経営の重点を移していった。そしてその中で、城下での芸能興行を束ねる権限を手にし、藩制の末端に連なっていったのである。そのことは次の史料からもわかる。

一 大操   一 碁盤人形并子踊   一 為寄浄瑠璃   一 軍談講釈   一 浮世噺家
右之通御沙汰ニ付、従古来支配下知仕来候。御内條奉書上候以上。
亥八月一日(嘉永四年) 操座本 四郎佐善左衛門様御番所
(「諸願書留帳」より)
上るり・ふんこ・新内なとハ鈴江四郎三郎殿と申、是ハ芸者之頭にて願(興行願主)にて御座候
(『奥のしをり』より)

その後、操座本は明治初期まで続いたという。「諸願書留帳」は同三年八月七日付の興行願いで終わっている。印判業は先代四郎佐(明治十七年~昭和十四年)の代まで続いた。

鈴江家の系譜

鈴江家の文書の中には、天保・弘化期の一紙物の系図が四枚あった。要点は次の通り。

鈴江家の系譜

この中で生没年がわかるのは五代四郎佐である。「諸願書留帳」によれば、彼は安政七年(1860)正月八日に六十二歳で没しているので、出生は寛政十一年(1799)頃になる。また、彼の死亡時、子の四郎兵衛(六代四郎佐)は四十一歳であったので、五代四郎佐は二十一歳で嫡男をもうけたことになる。今、仮にそれまでは平均三十歳で嫡子を得たと仮定して系図をさかのぼってみると、初代四郎兵衛は延宝期ごろの出生となって、彼が盛岡に定住したという寛永期とはほぼ半世紀のずれが生じることになる。

上村日向少掾は上村源之丞座の座本で、三代源之丞(承応一年没カ)が藩主より日向名を賜ったと伝えられるが、鈴江又五郎とは血縁はない。淡路の鈴江家は代々、三条村の庄屋を勤めた家柄であった。文化八年(1811)の三条村の棟付帳によって系図をたどってみると、

初代太郎助 ― □ ― 三代五郎兵衛(天正期) ― □ ― 四代助五郎(元和期) ― 五代助五郎(寛永期) ― □ ― 七代又五郎(延宝期) ― 八代又五郎(宝永期)・・・当代又五郎(文化期) ― 次代実蔵(天保期)

鈴江家の元祖はもと阿波国板野郡鈴江村(現徳島市川内町鈴江)、後に渭津(いのつ)(徳島城下)に居を構えていた。太郎助のとき淡路に移り、三代五郎兵衛のときまで浦壁城主嶋田家(三原町神代浦壁)に仕えていたが、天正年中に主家没落のため浪人となって三条村に移り住んだ。そして、四代助五郎のときから三条村の庄屋を勤めている。四郎兵衛の盛岡移住が寛永期とすると、その兄という又五郎は五代助五郎または六代(名不詳)と考えられるが、四郎兵衛の名は今のところ淡路側の史料では残念ながら確認できない。なお、この棟付帳の「走人(はしりにん)名面」の中に延宝の棟付改めの時の走人として、「又五郎下人彦九郎、同太郎」の名があげられている。

鈴江家の系図では鈴江又五郎は「座元代官」となっているが、淡路では聞き慣れない役職名である。三条村庄屋であった鈴江又五郎は、人形操りには直接従事していないが、三原郡の座本組織の中で相談役的な役割を果たしていた。元亀元年に賜ったという綸旨を預かっていたと伝えられ、また、各座本の必ずしも順調でなかった経営にも力を貸していた。

淡路の鈴江家は明治以後、助五郎-信一-敬一-敬一郎と続く。助五郎は明治初年の神道国教化の際、伊加利八幡・片田八幡の詞掌に任命された人物。信一は六座本の「規約証」(明治二十一年)に上村源之丞隠居座代理として署名している。その後、信一は西宮で牧場を経営するため三条を引きはらい、淡路では、信一の子、島本きみ子が鈴江家代々の墓所(通称又五郎三昧)を守っていた。現在、鈴江家は大阪府南河内郡美原町に在住している。

発見された人形

次につづらから発見された人形について見てみたい。明治初年まで操り興行をしていたのであれば、当然もっと多くの新しい様式の人形があったはずであるが、出てきたのは古い様式の人形五点と指人形十点(うち三点はかしらのみ)、狐のかしら一点だけであった。鈴江家はもとは北上川に近い川原町にあり、明治四十三年の大洪水で多くの人形が流失したり破損したという。昭和二十二・二十三年の台風でも大きな被害を受け、翌二十四年に約二百メートル離れた小高い現在地に転居した。

発見された人形がいつ頃のものか、大いに興味があるところだが、近世のかしらは内銘がないのが普通で、人形やかしらの構造、様式による編年が確立できていないので、残念ながら制作年代を正確に特定することは極めて困難である。

■つづらの中から発見されたもの

三番叟(さんばそう・さんばんそう)/千歳(せんざい、ちとせ)/(えびす)/女官風の女と冠の男指人形「鈴江家伝来の書」

鈴江家人形の発見後、淡路・盛岡の相互の訪問が相次いだ。八月下旬、淡路人形協会森勝理事長が盛岡を訪問、十二月には盛岡県立博物館の金子館長と門屋主任学芸員が淡路を来訪、翌六十三年五月には鈴江家の皆さんが淡路を訪れ、大阪の鈴江本家の方々とともに先祖の墓参をされた。

そして発見からほぼ一年後、七月二十八日の伝統芸術鑑賞会で淡路人形浄瑠璃公演が実現し、岩手県民会館で南淡中学郷土芸能部が「太十」と「壷坂」を上演した。さらに、NHK徳島放送局制作の「徳島スペシャル・でこ人形みちのく流転」が、平成二年八月十九日に放送された。

伊那谷の人形芝居 -信州の淡路系人形芝居-

人形芝居の宝庫 伊那谷

諏訪湖から流れ出た天竜川の流域は、東に南アルプス、西に中央アルプスの山並みが連なり、広大な谷筋を形成する。この谷を伊那谷をいう。古くから、中山道の脇街道として、また天竜川の河川交通路として栄え、東西のさまざまな文物が往来した。

伊那谷は民俗芸能の宝庫で、とりわけ人形芝居の密度が極めて高い地域として知られる。江戸時代は村ごとに人形芝居があったといわれたほどで、人形芝居伝承地は数多い。その多くはすでに廃絶しているが、うち、古田人形・黒田人形・今田人形・早稲田人形の四座が現在も活発に活動を続け、伊那人形の伝統を守っている。伊那人形芝居保存協議会を組織して技芸の伝承に取り組み、若い後継者も育ち、各座とも活動は、近年、より活発になっている。また、創作外題に取り組んだり、江戸時代の芝居情緒を再現するため和蝋燭(ろうそく)の灯りで上演したりと、新しい試みも行われている(今田人形)。平成六年三月、国立文楽劇場の第四回民俗芸能公演「ふるさとの人形芝居」に四座が出演した。

伊那谷には八〇〇点をこえる多くのすぐれたかしらが現存する。商業座本にとってかしらは消耗品で、淡路では傷んだかしらや、大型かしらの流行で時代遅れとなった古いかしらは次々と廃棄されてきたが、伊那谷では、かしらは地域の文化遺産として大切に扱われ、全般的によい状態で保存されている。かしらが類似化される以前の多様で表情豊かな造形は、淡路阿波人形や文楽の類似化されたかしらを見慣れた目には、たいへん新鮮に映る。その中には、十八世紀に遡る植毛かしらや、エンバ棒式の遺構を残す古いかしらも多く、また、内部に作者や製作年などの内銘のある江戸時代のかしらもあり、かしらの編年を研究する上で欠くことのできない資料となっている。現在確認されている日本最古の内銘(元文二年・1737)のあるかしらも伊那谷にある(黒田人形)

飯田市上郷黒田の諏訪神社の境内には、天保十一年(1840)に建てられた、日本で最古最大の人形舞台(国の重要有形民俗文化財)がある。また早稲田では、人形による神送りという珍しい民俗行事が今も伝承されている。

かしらとともに、研究者の注目を集めるのは、豊富な文書史料の存在である。とりわけ、古田人形の保護者であった唐沢家の膨大な文書群は、伊那人形史のみならず、人形浄瑠璃史全般にとって貴重な史料である。

また伊那人形芝居は、学術的調査・研究の面でも先駆的で、数々のすぐれた成果を挙げている。古くは日下部新一氏の研究から、近年は伊藤善夫・武井正弘・桜井弘人・木下文子・故木下迪彦ら各氏によるかしら・文書等の悉皆(しっかい)調査など地元研究家を中心とした地道な研究は、飯田市美術博物館調査報告書1『伊那谷の人形芝居[かしら目録台帳]』、2『同[文書目録編]』等の労作に結実し、地域における人形芝居研究の最高の水準を示している。以下の記述は、同調査報告書、特に伊藤善夫氏の著述、ご教示に負うところが大きい。

座本市村六三郎

伊那谷の人形芝居の発展には、淡路の人形遣いたちが深く関わっていた。伊那谷・美濃を手広く興行した座本として、市村六三郎が知られる。市村久蔵・吉田時蔵は古田人形を、吉田重三郎は黒田人形を、森川千賀蔵は河野人形を指導し、久蔵・重三郎・千賀蔵は現地で生涯を終えた。彼らが伝えた「道薫坊伝記」等は、今も大切に伝承されている。

伊那谷に最初に足を踏み入れた淡路の人形遣いは、史料で確認できる限りでは、市村六三郎である。六三郎は、少なくとも二代以上続いた座本で、先代六三郎は寛延二年(1749)頃に江州(滋賀県)で、その子六三郎は宝暦四年(1754)に美濃(岐阜県)で興行し、その際、使用を禁じられた「諸芸諸能之司」の看板を掲げたため、宝暦五年に三条村の座本に訴えられたことが「引田家文書」からわかる。その他、六三郎の名は「引田家文書」では、座本組織の規約文書の署名にみえる。元文六年(1741)の「相定申一札事」、宝暦三年(1753)の「覚」に署名しており、かなり有力な座本であったらしく、後者の「覚」には名門市村六之丞よりも先に、市村の五座本の筆頭に署名している。

六三郎が伊那谷の記録に最初に現れるのは、享保九年(1724)三月のことである。伊豆木(いずき)(飯田市三穂)の旗本、小笠原家に招かれて人形浄瑠璃を上演し、花代として三分を受け取っている(「小笠原家御用所御日記」)。小笠原氏は人形浄瑠璃を好んだようで、弘化三年(1846)には村人の日々の慰めのために人形浄瑠璃を奨励している。

六三郎は中山道を通り、中津川から清内路(せいないじ)峠を越えて伊那谷に入ったのであろう。この辺りは六三郎が得意としたところで、次の興行の記録が残っている。

享保九年(1724) 伊豆木(長野県飯田市三穂)
寛保三年(1743) 弥勒堂(岐阜県瑞浪市山田町)
宝暦三年(1753) 釜糠地蔵堂(瑞浪市稲津町小里釜糠)
宝暦四年(1754) 高松観音堂(瑞浪市小田町下小田)
宝暦六年(1756) 山田村どうじ(瑞浪市山田町どうじ)
月吉村(瑞浪市明世町月吉)
下石村(土岐市下石町)
宝暦十二年(1762) 小川渡(長野県下伊那郡喬木村)
天明三年(1783) 山王、阿島安養寺(喬木村)

六三郎は、宝暦(1751~63)の後期に淡路を離れたと思われ、諸国を巡った末に伊那谷に至り、そこで生涯を終えた。六三郎の甥、市村久蔵は文化六年(1809)に次のように書いている(要旨)。

五十年前、伯父市村六三郎は諸国へ出たとき、国元から道薫坊伝記を持参し、国々は勿論、蝦夷地(北海道)にまで渡って興行し、さらに当国(信州)へ渡り、飯田(長野県飯田市)の辺りで老死した。

六三郎が大切に所持してきた「道薫坊伝記」は、甥の久蔵に譲られた。六三郎の北海道興行は今のところ傍証がないが、事実とすると驚くべきことである。いずれにせよ、六三郎は淡路の座本組織の枠にとらわれず、新しい顧客を求めて遠方へ打って出る積極性、進取の気性に富んだ座本であった。

六三郎の伊那谷での動向を知る手がかりは、今のところこれらの史料しかなく、死亡年も不明である。墓も見つかっていない。伊藤善夫氏は、「淡路の人形遣いは死の直前まで道薫坊伝記を手放さなかったことから推定すると、六三郎の死は久蔵が上古田を訪れた安永の頃か、それ以前の昭和年間(1764~72)であろう。・・・・・天明三年(1783)の記録は久蔵の伯父とは考えにくい。六三郎一座の後継者か同名別人ではなかろうか」(『伊那谷の人形芝居[文書目録編]』)とし、また、人形芝居のある村には寄留した様子もないことから、六三郎は、地元との競合を避け、同好の士に配慮する大きな度量を備えた頭領(とうりょう)ではなかったか、と推定される。

古田人形と市村久蔵

古田人形は上伊那郡箕輪町中箕輪上古田にあり、伊那人形各座の中ではもっとも北部に位置する。古田人形は地方の人形芝居の中でも、もっとも史料が豊富で、中馬(流通業)で栄えた唐沢家(屋号大板屋)に関係文書が多数残されている。

古田人形のはじまりは、享保十四年(1729)と元文五年(1740)の二説がある。その後、寛保三年(1743)に若者らが金を出し合って、名古屋から質流れの人形道具一式を買い求めたときから、古田人形の活動は本格的になった。その翌年からの上演外題等は「出し物覚」(仮題)に記録されており、さらに寛政元年(1789)からは「引札」といわれる手書きの芝居番付も残っている。現存する引札は操り二十三枚、地狂言四枚で、引札が残っているのは古田人形だけである。

克明に記録された古田人形の上演記録の中で、特に注目されるのは、延享二年(1745)八月の祭礼での「延喜帝秘曲琵琶(えんぎのみかどひきょくのびわ)」の上演である。この浄瑠璃の初演は、同年四月三日大坂、明石越後掾座で、古田では大坂での初演後、わずか四ヶ月でこの最新外題を舞台に掛けているのである。「楠昔噺(くすのきむかしばなし)」は延享三年(1746)一月十四日、大坂竹本座での初演後、約半年で上演している。この頃、大坂では、「操り段々流行して歌舞伎は無(なき)が如し。・・・・・操りのはんじやう(繁昌)いはんかたなし」(『浄瑠璃譜』)といわれた、人形浄瑠璃の全盛期を迎えるが、伊那谷もすさまじいばかりの浄瑠璃が席巻していたのである。

こうした中で市村六三郎の甥、市村久蔵が古田を訪れた。「祭礼操之由来記」(文政七年)はこう書いている。

安永(1772~80)之頃より淡州之者市村久蔵申座崩レ当村ニ住居仕罷在候而、天下泰平之三番相年々早春ニ為祝義仕候。右久蔵義文化六巳年病死いたし候故、夫より年々ハ不仕候。

久蔵は一座が崩れて上古田に住み着き、毎年早春に天下泰平の三番叟を演じたとのことであるが、もともと伯父六三郎座の役者だったのであろう。三番叟のことに触れているところを見ると、久蔵によって古田の三番叟は本格的に行われるようになったと思われる。唐沢家文書の中には、三番叟の詞章を書いた「式三番 上古田邑(むら)唐澤満孫所持」がある。記年はないが、唐澤満孫は宝暦の初め頃の生まれであるので、久蔵当時の詞章が正確に記録されていると考えてよい。各地の三番叟は口承で伝えられてきたため、誤って伝えられることが多かったが、十八~十九世紀の詞章を正確に伝えるこの文書は、三番叟の比較研究には欠かせない一級資料である。

「出し物覚」の安永三年(1774)の条に、「神霊矢口渡(しんれいやぐちのわたし)当年ヨリ師久蔵」とあり、この頃から久蔵が本格的に古田人形を指導したのであろう。寛政元年・二年の引札(芝居番付)には「人形世話人」として、寛政五年から文化三年の引札等には「人形頭取」として久蔵の名がみえる。

寛政七年(1795)には十両程で人形芝居の定舞台が造られた。ところが、寛政十一年(1799)、幕府から「遊芸芝居そのほか何によらず人寄り目立つことは御停止」の御触れが出され、祭礼での操りはできなくなった。しかし、古田の人々は、若者が悪事に心を寄せてはいけないのでと、内々に正月の日待ちに各自宅で操りを続けている。内々といっても番付が発行され、「年々日記」に「大あたり」と記録されるほどの賑わいであった。

この頃、古田人形はもう一つの問題を抱えていた。若者たちが人形芝居から離れ、狂言(歌舞伎)に心を奪われていたのである。寛政九年の操りには若者は一人も参加しない有様で、若者たちは翌年から狂言を演じるようになる。上方では昭和年間の竹本・豊竹両座の退転に象徴されるように、人形浄瑠璃は歌舞伎に押されていたが、古田人形も中央の動向を敏感に反映していたのである。

それでも古田の操りは、久蔵の指導のもとで新作物を次々と取り上げ、活発に活動した。文化五年(一八〇八)には高遠(たかとお)祢里祭鉾(ママ)持町で三日間の頼まれ操りをして大当たりをとっている。翌六年には、高遠城内の勘助曲輪(くるわ)で稲荷祭礼操りを行い、御奉行様から酒と礼金二両を頂戴した。このときの番付には、病床にあった久蔵の名はない。

この文化六年(1809)の十一月、市村久蔵は、伯父六三郎から譲り受け、大切に所持してきた「道薫坊伝記」を唐沢家に譲り渡している。久蔵の倅は町人になり、父の跡は継がなかった。


久蔵は、翌文化七年(1810)正月六日に死亡した。翌年十二月、妻のおはるが死亡した。墓は唐沢家の墓地にあり、夫婦連名で祀られている。

文化十三年(1816)閏八月十四日から三夜、古田の面々は南殿村で興行した。「尤市村久蔵之追善と号、久蔵旧恩之返礼なり」(「壱番年々日記」)

文政七年(1824)正月上旬に淡路の人形遣い吉田時蔵が上古田に来た。時蔵の来訪は歓迎され、「幸いのこと」と早速操りの稽古を始めている。唐沢家文書の「淡路操巡通一札之事」は、時蔵がもたらした可能性がある。


淡路には徳島藩主蜂須賀家の城代家老稲田九郎兵衛の領分が二十三か村あったが、戻橋村は実在しない。一条戻橋にヒントを得た創作か。

古田には森川千賀蔵の金看板がある。千賀蔵は、河野(かわの)人形(下伊那郡豊丘村)を指導した淡路の人形遣いである。彼と古田人形との関わりは文書には一切出てこないが、何らかの関係があったことは間違いない。伊藤善夫氏は、久蔵以前の古田の指導者であった可能性を指摘している。

黒田人形と吉田重三郎

黒田人形は旧下黒田村、現在の飯田市上郷黒田にある。下伊那ではもっとも活発に活動してきた座の一つで、所蔵するかしらは百点以上を数える。「元文弐丁巳(1737)二月山城大野村 竹本松穂作」とある老女形のかしらは、現在確認されているもっとも古い内銘のあるかしらである。

伝承によれば、黒田人形の初発は元禄期(1688~1703)で、高松正命庵の正覚(正嶽)真海という、遊芸の嗜みがあった僧侶が、近隣の若者に義太夫・三味線などを教えたのが始まりという。正覚真海は淡路出身という説もあるが、確証はない。その後、諏訪神社の境内に、六間に三間半の舞台を造り、毎年の例祭で神楽の替わりとして人形芝居を上演するようになった。黒田の人形芝居は、高額の加入金を納めて明神講に加入した村人によって代々受け継がれ、講外の者は一切触れることを許されなかった。

伊那谷には専門の人形遣いが数多く来住しているが、黒田の人々も外来の専門家を積極的に受け入れて技芸を磨いた。天明年間(1781~88)に淡路の人形遣い吉田重三郎が来住、続いて大坂の桐竹門三郎(天保三年来住)らが黒田に来た。

天保十年(1839)には、諏訪神社の古い人形舞台が取り壊され、桜町二丁目(飯田)の棟梁和泉屋善兵衛の施工によって、翌十一年、間口八間、奥行き四間、二階建ての新しい舞台が完成した。現存する最古でもっとも規模が大きい人形舞台である(国の重要有形民俗文化財)

明治十六年に代田斎(しろたいつき)(当時七十二歳)が書いた「明神講誓約規則書」によれば、

当村正命庵ニ住居シタル正覚真海ト(云)禅僧ハ人形教育之祖人也。亦天明年中淡路之国ヨリ吉田重三郎と云人形之芸人来、村内江専教、此者当村住居シ文政年中ニ没ス。其後亦天保三年大坂ヨリ桐竹門三郎と云芸人来、是も当村に住し文久年中に没ス。右両名共ニ太念寺ニ廟所(びょうしょ)アリ。吉田重三郎と云者人形根本之免伝ヲ所持致ス。没シテ後は右之伝書当村ニ納ル、全人形座之秘書ニ而容易ニ難得書ナリ。今北原直助め光り之主ナリ、此人授与シテ秘蔵シ有之也。

吉田重三郎が所持していた「人形根本の免伝」とは「道薫坊伝記」のことである。黒田の人々も、「全人形座の秘書にして容易に得難き書なり」と崇敬している。「道薫坊伝記」は重三郎の死後、村に納められ、北原直助が秘蔵したが、残念ながら現在は所在不明のようで見ることはできない。

重三郎が黒田で活躍していた頃、古田人形には市村久蔵がいた。同郷の二人は互いに協力しあっていたようで、重三郎は古田人形の興行にも力を貸している。

古田人形の番付によると、重三郎は、文化三年の「日待ち遊び興」では、「近江源氏先陣館(おうみげんじせんじんやかた)九つ目」「楠湊川合戦(くすのきみなとがわのかっせん)」「碁太平記白石噺(ごたいへいきしろいしばなし)」で、鶴沢重三郎・野澤重三郎の名で三味線を弾いた(人形頭取は市村久蔵)。文化六年の高遠(たかとお)城内勘助曲輪(くるわ)の稲荷祭礼では、「白石噺(しろいしばなし)」「矢口渡(やぐちのわたし)」の人形を遣った(久蔵は病気のため休演、翌年正月に死亡)。久蔵の亡き後、文化七年の日待ち操り「木下蔭狭間合戦(このしたかげはざまがっせん)」、八年の日待ち操り「古戦場鐘懸(こせんじょうかねかけ)の松(まつ)」では人形頭取を勤めている。

重三郎には跡継ぎ息子がなく、文化十年(1813)に上古田村の六右衛門の養男庄吉を養子に迎えた。そのことは、上古田村の名主から下黒田村の名主に宛てた「送り一札」からわかる。六右衛門は、上古田の名家唐沢家の分家(唐沢家八代当主の兄か)である。重三郎は名門と縁戚関係を結ぶほど、上古田の人々にも受け入れられたのである。

重三郎は、文政四年(1821)九月二十三日に死亡した。墓は下黒田の太念寺にある。戒名は「秋山了悟禅定門」。自然石の立派な墓を見ると、彼がいかに村人に敬愛されていたかわかる。

黒田人形保存会元会長麦島正吉氏によれば、重三郎、門三郎らの墓は太念寺内の別々の所にあったが、昭和五十二年に一ヶ所にまとめて祀りたいという話がまとまり、太念寺にお願いして、人形舞台のある諏訪神社を遠く望み、下黒田区全体を見渡せる最高の場所にまとめて移し、保存会で墓のお守りをしている、とのことである(麦島正吉『黒田人形覚書』)。何百年経っても師匠への感謝と敬愛の心を忘れない黒田の人々の誠実さがしのばれる。

昭和十五年、淡路出身の五代目桐竹門造が、かしらの調査のため黒田を訪れた。黒田の三番叟の上演を見て、淡路の三番叟と同じだと懐かしがったという。

河野人形と森川千賀蔵

河野人形は天竜川の左岸、下伊那郡豊丘村河野にあった。すでに廃絶し、かしら六十点は豊丘村歴史民俗資料館に収蔵されている。河野では淡路の人形遣い森川千賀蔵(ちかぞう)が教えた。古田の市村久蔵や黒田の吉田重三郎とほぼ同時代である。しかし、千賀蔵の「道薫坊伝記」と、その譲り状が残っているだけで、河野人形や千賀蔵の活動を記録するものはない。

御綸旨譲り証文之事
一、私儀淡路出生ニ而操商売仕来り御綸旨頂戴罷有候所、及老年ニ血脈身寄之者も無御座候ニ付、奥書御連名之御衆中御無心申候所、御承知被下御綸旨相譲り候事実正也、然上は於淡路ニ無粉株ニ候間、芝居等被成候共外より差障無之、随分御大切ニ被成幾々之段御頼候、先は御綸旨譲り証文仍而如件、 文化五辰年三月
御綸旨譲り主  千賀蔵 ㊞
河野村  伝兵衛殿 ㊞
(河野村七名省略)
福与村  左五右衛門殿 ㊞
(下伊那郡豊丘村 滝川重人氏蔵)

ここでいう「綸旨」とは「道薫坊伝記」のことである。年老いて身寄りもなかった千賀蔵は、文化五年(1808)に永年所持してきた「道薫坊伝記」を河野村・福与村の九人に譲り渡した。河野の人々は、「御綸旨が何方のところへ行ってもお互いに、万一火事になったときは、最初にこの御箱を早々に持ち出すように」と書いた紙片を綸旨箱に添えて、大切に伝えてきた。

千賀蔵は上伊那の古田人形とも何らかの関係があったらしく、上古田には千賀蔵名の金看板が伝えられている。

今田の「道薫坊伝記」

伊那谷に伝えられる「道薫坊伝記」は、古田、黒田、河野の三巻と考えられてきたが、四巻目が飯田市龍江の奥村家で発見された。龍江は今田人形の所在地である。誰がこれを今田に伝えたのか、記録も伝承もないが、今田人形の歴史の中で淡路の人形遣いが関わっていた可能性はある。なお、この「道薫坊伝記」の末尾に「中院大納言通村卿筆(朱印) 三原郡 上村 市村 三条村」とあるが、上村という村は三原郡にはない。

伊藤善夫氏は、「道薫坊伝記」が少なからず残されていることから、伊那谷に来たのは、一座を率いた座頭か頭取クラスの人物ではなかったかと推論されている。確かに次々と新外題を舞台に掛け、頭取として興行を取り仕切ってきた彼らの活躍を見ると、単なる一介の人形遣いではなく、三業すべてに精通し、中央の浄瑠璃界の情勢にも明るい、人格識見に優れた人物で、元の座でも相当な地位にあったに違いない。

三条村と市村の棟付帳の走人(はしりにん)名面には、信州へ道薫坊廻に出向き、そこで行方不明となった六人の人形遣いの名が挙げられている。出奔地が不明の走人も多く、実際にはもっと多くの人形遣いが伊那谷に入ったのではなかろうか。永田衡吉は、古田の番付にみえる市村又五郎・市村桂蔵・吉田長四郎も淡路の人形遣いとしている(『改訂日本の人形芝居』)。また、村沢武夫『伊那の芸能』は福与村の竹本鶴太夫(鶴沢政吉)も淡路出身としているが、いずれも確証はない。プロの人形遣いを積極的に受け入れた伊那谷には、各地の人形遣いが安住の地を求めて入峡している。