淡路人形浄瑠璃の歴史

淡路島と国生み神話

8世紀前半に書かれた歴史書「古事記」と「日本書紀」の冒頭に、国生み神話が書かれている。

地球上がまだ混沌としていた時代、いざなぎ(男神)といざなみ(女神)が、天空に架かった橋(天の浮き橋)の上から、矛を海中に突き刺してかき混ぜ、引き上げると、矛先からしたたり落ちた滴が固まって小さな島(おのころ島)となった。2人の神はその島に降り立って結婚し、次々と日本の国土を生んでいき、この時最初に生まれたおのころ島が淡路島である。

国生み神話

淡路人形浄瑠璃の歴史

上方と密接な関係をもって発展してきた淡路の人形浄瑠璃は、江戸時代前期から西日本を中心に各地を巡業し、浄瑠璃文化を地方に伝えた。淡路の人形座が伝承してきた演目には、中央では早くに廃絶したものや、淡路で改作・創作されたものも少なからずあり、淡路人形浄瑠璃は近世演劇史の一翼を担う重要な役割を果たしてきた。

淡路人形芝居の起源について、淡路座が大切に伝えてきた『道薫坊(どうくんぼう)伝記』とよばれる巻物に、摂津西宮の百太夫(ひゃくだゆう)という傀儡師(かいらいし)が淡路の三條(さんじょ)村(南あわじ市市(いち)三條)に来て人形操りを伝えた、という伝承が書かれている。三條には、淡路人形の祖先神である道薫坊や百太夫を祀る戎社があり、今も正月には社前で『式三番叟(しきさんばそう)』が奉納されている。

道薫坊伝記

江戸時代になると、上方から新しい浄瑠璃や技術をいち早く取り入れ、一座を組んで各地に巡業に出た。行く先々で野掛け小屋という仮設の芝居小屋を組んでの興行で、1月上旬に淡路を発ち、12月中旬に帰ってきた。淡路の人形浄瑠璃は、他の農村芝居などと異なり、もともとそれを職業とした専業集団によって伝承発展してきた芸能だった。

淡路の人形座は、享保・元文期(1716~41)で40座以上、文政期(1818~30)で18座を数えた。なかでも淡路人形の元祖として由緒と権威を誇ったのが上村(うえむら)源之丞座(日向掾(ひゅうがのじょう)、引田源之丞)で、市村六之丞座がそれに次いだ。初代源之丞は、元亀元年(1570)に宮中で『三社神楽(式三番叟)』を奉納し、従四位下(じゅしいのげ)の位階を授かったと伝えられ、それを示す「綸旨(りんじ)」は、『道薫坊伝記』とともに淡路人形の格式を証明するものとして大切に伝えられてきた。

薄墨の綸旨

元和(げんな)元年(1615)、大坂の陣の功によって、徳島藩蜂須賀(はちすか)家は淡路一国を加増された。歴代藩主やその家族は、たびたび上村源之丞座を招いて上演させている。寛永20年(1643)の御前操りが、今のところもっとも古い淡路座の上演記録である。また藩は、夫役(ぶやく)(税の一種)を免除したり、経営難のときには徳島城下で特別な大芝居をさせたり、ときには資金を貸し出したりして上村源之丞座を保護した。

徳島城下での大掛かりな興行の例として、上村源之丞座が元禄6年(1693)に徳島の東富田で行った興行がある。この興行を記録した『芝居根元記』(阪口弘之氏所蔵)によれば、常雇いの役者に加え、新たに大阪から太夫・三味線弾き3人を雇い入れて、14日間の興行をした。演目は当時の新作浄瑠璃7題で、特に『虎おさな物語』(近松門左衛門作)は、これまで知られている初演より1年余り早い上演であった。人形は一人遣いの時代だが、間口8間(1間は約1.8m)の舞台には現在と同じ二重の手摺り(てすり)が設けられ、平土間とそれを囲む桟敷席には、観客が「三千入る積(つも)り也」という規模であった。

江戸時代、淡路座の巡業先は南は九州、北は中部・北陸から東北に及んだ。九州府内藩(大分県)浜の市の記録には、宝永元年(1704)以降の淡路座の興行記録がある。中部地方では市村六三郎座が、北陸では中村政右衛門座・市村六之丞座・吉田伝次郎座が盛んに興行した。こうした淡路座の広範な活動が各地に人形芝居を根付かせ、地方の文化に大きな影響を与えた。

文楽の始祖、植村文楽軒

岐阜県中津川市付知(つけち)町には、天和(てんな)2年(1682)に淡路の人形遣いから習った『翁舞(おきなまい)(式三番叟)』が伝承されている。天竜川に沿った長野県伊那谷は人形芝居の盛んな土地柄で、江戸中期、この地に住み着いて人形芝居を教えた淡路の人形遣いも多かった。昭和62年、岩手県盛岡市の鈴江家のつづらから、一人遣いの古い人形とともに、『道薫坊伝記』を含む古文書が発見された。それによれば、鈴江家の先祖四郎兵衛は淡路の三條村の庄屋鈴江又五郎の弟で、寛永18年(1641)、盛岡城内で「道薫坊廻シ」を勤め、そのまま盛岡で座本として活動するようになったという。文楽の始祖、植村文楽軒も淡路出身で、19世紀初頭に大坂高津で開いた芝居小屋は、明治5年(1872)、三代目文楽軒のときに「文楽座」と名乗った。

義太夫節による三人遣い(主(おも)遣いがかしらと右手、左遣いが左手、足遣いが足を操る)の人形芝居という点では文楽と変わらないが、淡路のかしらは文楽と比べてかなり大きい。明治中期から各座競って大型化したもので、大きい人形がダイナミックに動く時代物の演技が地方の観客の人気を集めた。また淡路人形は、神事色を色濃く残しながら、一方では早替わりなどケレン味に富んだ演出を追求した。背景が次々と変わって最後は千畳敷の大広間になる、目の錯覚を利用した「道具返し(襖(ふすま)からくり)」や、豪華な衣裳を何本もの竿に吊し、三味線に合わせて上下させて披露する「衣裳山」も淡路座独自の演出である。

娯楽としての人形浄瑠璃

淡路島には「芝居は朝から、弁当は宵から」という言葉がある。人形芝居が来ると、前の晩から重箱いっぱいに御馳走を用意して、日がな一日、人形芝居を見るのが何よりの娯楽だった。正月には『三番叟』が家々を回り、りょう漁祭りでは『戎舞(えびすまい)』で豊漁を祈った。島のあちこちに浄瑠璃の稽古場があった。祭りで歌われる「だんじり唄」も浄瑠璃から派生したもので、各地区ごとに得意の外題(げだい)を歌い継いできた。こうして淡路の人々の生活に深く溶け込んでいた人形芝居だったが、新しい娯楽に人気を奪われ、昭和30年代には急速に姿を消していった。

野掛け芝居昭和33年洲本市鮎原天神 撮影/宗虎亮

淡路人形保存運動は昭和10年頃から始まったが、昭和52年に淡路の1市10町によって財団法人淡路人形協会が設立され、本格的な保存活動が行われるようになった。淡路人形協会の経営する淡路人形座は、現在活動している唯一の座で、常設館での通常公演のほか、地方公演や海外公演も積極的に行いながら、淡路独自の浄瑠璃の伝承に取り組んでいる。また、南あわじ市賀集(かしゅう)福井子供会、市(いち)小学校、南淡(なんだん)中学校、三原中学校、兵庫県立淡路三原高等学校や社会人グループも淡路人形の伝承に熱心に取り組んでいる。平成九年には淡路人形芝居サポートクラブが結成され、淡路人 形浄瑠璃を支える輪が拡がっている。

『芝居根元記』にみる 元禄時代の興行

淡路人形浄瑠璃の元祖上村源之丞(うえむらげんのじよう)座は、元禄6年(1693)、徳島城下で大規模な興行を行いました。その芝居の様子は、『芝居根元記(しばいこんげんき)』(阪口弘之氏所蔵)の発見によって詳しくわかりました。『芝居根元記』は、智円清澄という人が丹念に取材してまとめた巻物で、現存するのは、安永8年(1779)に書き写した写本です。最古の人形舞台図を含め、これほど古い時代の詳細な記録はなく、たいへん貴重な史料です。

この芝居は、元禄5年、経営難に陥った上村源之丞座が徳島藩から銀札3貫目を借用し、翌6年に城下での興行を願い出たもので、藩がバックアップした「御手当芝居」でした。

興行は、20名の常雇いの人形遣い・太夫・三味線弾きに、大阪から新たに雇い入れた越川権太夫(えちがわごんだゆう)・竹本左内、三味線の山本春勝を加え、徳島東冨田にこしらえた掛け小屋で、4月13日から5月8日まで、14日間行われました。辻札は、義太夫節の創始者で人気No1の「竹本義太夫(たけもとぎだゆう)」の名をあげていますが、実際には義太夫は来ていません。

芝居根元記辻札の図

演目

浄瑠璃外題(げだい) 作者・所属
佐々木大鑑(ささきおおかがみ)附 藤戸之先陣(ふじとのせんじん) 近松門左衛門
頼朝伊豆日記(よりともいずにっき) 近松門左衛門
蝉丸逢坂山物語(せみまるおうさかやまものがたり) 近松門左衛門
薩摩守忠度(さつまのかみただのり) 近松門左衛門
天王寺彼岸中日(てんのうじひがんのちゅうにち) 山本角太夫
大磯虎稚物語(おおいそのとらおさなものがたり) 近松門左衛門
津戸三郎(つのとのさぶろう) 近松門左衛門
狂言
住吉踊、三番叟踊、住吉踊、恋の飴売、木遣(や)りなど

1日に、浄瑠璃1つと狂言が4つ上演され、プログラムは毎日変わりました。当時の浄瑠璃は5段で構成され、各段の幕間に踊りや寸劇などの「間狂言(あいきょうげん)」が演じられてました。阪口氏によれば、浄瑠璃は当時の新作物で、なかでも「大磯虎稚物語」は、これまで確認されているもっとも早い上演年(元禄7年7月)より1年余り早い上演でした。太夫や浄瑠璃が変わる前日には、太鼓を打って町中を触れ廻りました。

舞台と客席

人形は一人遣いの時代でしたが、間口(まぐち)8間(1間は約1.8m)の舞台には二重の手摺(てすり)が設けられ、現在と同じ規模でした。舞台の正面に御簾(みす)が掛かっています。享保13年(1728)に現在のような出語り床(ゆか)が設けられるまでは、太夫・三味線は舞台正面の御簾内で語っていました。

客席は、平土間(14間×13間半)と、それを囲む桟敷(さじき)があり、「惣人数三千入ル積(つも)リ也(なり)」という規模には驚きます。売店(「菓子品々売申(うりもうす)小屋」)もありました。

芝居根元記芝居の図

観客は札売場で5分を払って入り札を買い、木戸口から入場します。一般客は中木戸で敷き物を借りて平土間に座ります。敷き物の値段は、畳1畳が1匁3分、薄縁(うすべり)が7分、半畳(はんじよう)が1分でした。高級客が求めた桟敷席は5匁から17匁、位置によって大きく値段が違いました。木戸銭や敷き物の値段は、竹本義太夫など上方(かみがた)の一流芝居の地方興行とほぼ同じレベルでした。入り札は当初800枚準備されていましたが、足りなくなって600枚増やされたほどの盛況でした。

興行の収支

惣銀高(総収入) 銀21貫目
諸事造用(経費) 銀5貫目 うち大坂者3人の給銀 300目余
差引き残額 銀十六貫目(約2500万円?) ただし花(御祝儀)は除く

この史料によって、淡路の人形浄瑠璃は早くから上方と緊密な関係をもち、その内容や規模からみて、中央の一流の芸能と比べても遜色のない高い水準にあったことがわかります。