本日より通常公演が『一谷嫩軍記 須磨浦の段』 ・ 『戎舞』にかわります。
本日より25日までの期間、淡路人形座では通常公演が、
『一谷嫩軍記 須磨浦の段』 ・ 『戎舞』にかわります。
上演の詳細は下記をご参照くださいませ。
20日から25日まで
●通常公演
演目「一谷嫩軍記 須磨浦の段」
10:00~
11:00~
演目「レクチャー」・「戎舞」
13:00~
14:00~
15:00~
「一谷嫩軍記 須磨浦の段」 解説・あらすじ
■「一谷嫩軍記 須磨浦の段」解説
西日本各地には源平合戦の古戦場が多くあります。須磨の浦の激しい戦いの後、
平家方の一部は淡路島に渡ったと伝えられ、淡路島にも古戦場や史跡があり、
淡路人形座のある福良港には、平清盛の甥、敦盛の首を荼毘にふしたと伝えれる
煙島や、鶴島城跡などがあります。「祇園精舎の鐘の声・・・」の有名な書き
出しで知られる、平家の栄華と没落を描いた『平家物語』は、様々なジャンルの
文字や芸能の源になりました。人形浄瑠璃でも源平合戦を描いた作品は数多く
ありますがその中でも『一谷嫩軍記』は代表的な名作です。宝暦元年(1751)に
大阪豊竹座で初演された五段続きの作品ですが立役者の並木宗輔が三段目までを
執筆して亡くなり、その後の段を浅田一鳥らが補筆して完成させました。三段目の
切が有名な「熊谷陣屋の段」で、それに先だって熊谷直実が敦盛(実は熊谷の
息子の小次郎。敦盛は後白河院の落胤であり、院に恩義のある熊谷は、我が子を
身代わりにして敦盛を助ける)を討つのが二段目の中「須磨浦組討の段」です。
この段は、あくまでも熊谷が敦盛を討つものとして劇が進行しますが、我が子と
敦盛の姿を重ね合わせる熊谷の胸中には、より複雑な思いが隠されているのです。
■あらすじ
平家軍のほとんどは船に乗り、屋島へ向けて退こうとしていました。須磨の浜の
波打ち際で、敦盛も平家軍の船を目指して沖に向って馬を走らせる途中、声を
掛けたのは熊谷直実でした。「引き返して勝負あれ」との熊谷の言葉に、敦盛は
引き返し、熊谷と一騎打ちの勝負になります。組み合ううちに馬から落ち、
最後は熊谷が敦盛を組み伏せました。熊谷は、覚悟を極め「自分の首をとれ」と
しおらしく言う敦盛が自分の息子と同じ年頃なので、憐れんで見逃そうとします。
しかしその様子を源氏方の平山武者所ヶ見ており「わざわざ組み敷いておきながら
平家方の大将を逃がすとは、熊谷は二心あるに極まった」と声高に罵りました。
敦盛は自分の回向を頼み、仕方なく熊谷は、ためらいながらも「未来は必ず一連
托生」と願い、敦盛の首を討ち落とします。あまりに若い貴公子の最期に、敵方で
ある熊谷も涙しながら、死骸を馬の背に乗せ、自らも陣所へと帰るのでした。
「戎舞」 解説・あらすじ
■解説
戎さまは今では商売の神様にもなっていますが、もともとは海の神様でした。
淡路島では昔から漁村のお祭りで浜芝居が行われ、間狂言として大漁や航海の
安全を祈って必ず舞われていたのが「戎舞」でした。自分の狙う魚の大漁を
祈って欲しいと次から次に魚の名前を叫ぶ漁師さんに応え、太夫はその漁村で
捕れる魚の名前をずっと語り続けたそうです。人形が神事として遣われた古い
形を残した出し物で、太棹三味線の伴奏ではなく、太鼓で語ります。
■あらすじ
戎さまが釣竿をかついで淡路人形座へやってきました。庄屋さんはお神酒を
出します。さかずきを飲み干した戎さまは、自分の生まれや福の神であること
を話しながら舞い始めます。海の幸、山の幸を前にみんなの願いをかなえようと
お神酒を飲み、幸せを運んできます。酔った戎さまは、船の乗り、沖に出て、
大きな鯛を釣り、メデタシ、メデタシと舞い納めるのでした。太鼓のリズムに
合わせ、戎さまが楽しく舞うこの神事には、おおらかな心を持ち、えびす顔で
プラス思考に生きるという幸せの原点が込められています。