淡路人形独自の演目

淡路座が上演してきた義太夫節人形浄瑠璃作品の中には、淡路で創作されたものや、淡路で伝承されてきたものなどがあります。それら「淡路独自」の面を持つ作品をご紹介します。

一覧の分類および解説は「淡路座上演作品解題」(久堀裕朗/神津武男)を参照、引用しております。

中央(大坂・江戸の人形浄瑠璃劇団)で創作、初演された作品

《中央では近世の内に伝承が途絶え、淡路座によって近代以降も伝承されたもの》

1.基本的に原作のまま伝承されたもの

奥州秀衡有鬠壻(おうしゅうひでひらうはつのはなむこ)

元文四年(一七三九)二月豊竹座初演、並木宗輔の単独作。初演の後、大坂では一度も再演されなかった作品だが、淡路座によって近代まで伝えられた。
豊竹座の元祖、豊竹越前少掾初演曲は今日では僅か数曲しか伝承されていない。そうした中で、淡路座に伝わった本作の、特に三段目切は、詞章の改変も少なく、曲風も越前少掾の語り口が残されているものとして、研究者や演者から注目を浴びた。その結果、三ノ切は文楽の豊竹呂大夫(五代目、故人)・野澤錦弥(現錦糸)によって、淡路での伝承曲を基に、原作詞章に戻した形で復曲もなされている。
淡路の伝承曲は、淡路座最後の義太夫節伝承者である豊澤町太郎(三味線)の録音によって残された。初段「大内」「清水花見」、二段目「鞍馬山」「池田宿屋」、三段目「松島宮居」「遠目鏡」「秀衡館」、四段目「庄司館」、五段目「京都五条橋」(原作ではなく『鬼一法眼三略巻』)が昭和四十六年に町太郎の弾き語り(「秀衡館」のみ竹本朝之助の語り)によって収録され、早稲田大学演劇博物館や淡路人形浄瑠璃資料館に保存されている。また昭和五十一年十月国立劇場第二十四回民俗芸能公演「阿波人形芝居」では、「池田宿」「秀衡館」「庄司館」の上演があり、その公演記録が残っている。
〔久堀〕

蛭小島武勇問答(ひるがこじまぶゆうもんどう)

宝暦八年(一七五八)八月竹本座初演、竹田小出雲・吉田冠子・近松半二・三好松洛・竹本瀧彦による合作。三段目にある相撲の場面が人気を得たらしく、『竹本不断桜』に「上々吉すもふて大出来出すとうれる蛸」と評されている。同年九月に京都で再演されているが、その他に通し上演の記録は残らない。相撲の場面に人形の見せ場があることから、淡路座の演目として定着したと考えられる。淡路人形浄瑠璃資料館に市村六之丞座や小林六太夫座の床本が残り、相撲場は掛け合いで語られたことがわかる。
明治二十一年三月、徳島半田で上野源左衛門座(淡路源之丞座の前身)が「大序ヨリ大切迄」上演しており、「角力之段」は「東西両床出語掛合役者惣出遣ひ」による上演であった(徳島県立文書館酒井家文書)。現存する床本に残る記述によって、更に後の大正頃まで上演されていたことが確認できる。
〔久堀〕

小田館双生日記(おだやかたふたごにっき)

明和七年(一七七〇)八月京都四条北側芝居、扇谷和歌太夫座初演。作者菅専助。文政十年(一八二七)三月江戸肥前座を最後に、中央での通し上演は途絶える。
淡路座では近代に至るまで伝承され、市村六之丞座と上村源之丞座の床本が現存する。そのうち六之丞座の床本によると、淡路では全九段の本作を五段構成化し、原作初・二段目を初段、四・七段目を二段目、五段目を三段目、八段目を四段目、九段目を五段目として上演していたことがわかる。淡路の伝承曲は、五段構成の三段目(原作の五段目)が豊澤町太郎の弾き語りによって残されている。
〔久堀〕

源平八島合戦〔弓勢智勇湊〕(げんぺいやしまかっせん〔ゆんぜいちゆうのみなと〕)

明和八年(一七七一)正月江戸肥前座初演、福内鬼外(平賀源内)作(吉田仲治補助)。初演外題が「弓勢智勇湊」で、「源平八島合戦」は淡路座における改題である。中央では初演興行の他に通し上演の記録が残らないが(三段目までは大坂で一度上演あり)、淡路座で頻繁に上演されたらしく、上村源之丞座、市村六之丞座、吉田伝次郎座の床本ほか、残存する写本も多い。弘化二年(一八四五)九月、徳島半田における吉田伝次郎座興行では、「弓勢八島合戦」の外題で「大序より四段目まで」上演されたことが確認できる(酒井家文書)。
伝承曲は、豊澤町太郎の弾き語りによって三ノ切が残されている。
〔久堀〕

敵討優曇華亀山(かたきうちうききのかめやま)

寛政六年(一七九四)十月・大坂北之新地芝居初演。司馬芝叟作。天保十三年(一八四二)正月大坂北堀江を最後に、中央での通し上演は途絶える。
淡路座では、近代に至るまで伝承され、淡路源之丞座、市村六之丞座の床本が現存する。このうち淡路源之丞座床本の一本には、昭和五年(一九三〇)に本作を上演した旨を記す書き込みが残されている。
〔神津〕

敵討天下茶屋〔讐報春住吉〕(かたきうちでんがぢゃや〔かたきうちはるのすみよし〕)

寛政八年(一七九六)正月・江戸薩摩座初演。番付が残らず、初演地は不明とされてきたが、近年通し本の書誌研究から初板が江戸で刊行されたこと、およびその奥付署名などから、江戸薩摩外記座での初演と特定された(神津武男著『浄瑠璃本史研究』)。作者は未改訂本では「兎角亭東喬」、改訂本で「奈川支干助・松井亭門人筒東喬」。初演のタイトルは「讐報春住吉」。享和元年頃江戸で「報讐殿下茶屋」と外題替えして再演。内題「天下茶屋聚敵討人形屋の段」は本作の七段目で、大坂佐々井治郎右衛門板の五行本が残るが、大坂・京都での再演記録は残らない。
現存する淡路座の床本(上村源之丞座、市村六之丞座・淡路源之丞座など)では主に「(敵討)天下茶屋」と記されている。明治二十年(一八八七)十月徳島半田村、上村阿波掾の上演では、外題が「敵討天下茶屋物語」と記録されている(酒井家文書)。
〔神津〕

自来也物語(じらいやものがたり)

文化六年(一八〇九)八月・大坂道頓堀角の芝居初演。作者並木春三・芳井平八。文化四年(一八〇七)九月同芝居初演の歌舞伎「柵自来也談」(作者近松徳三)を浄瑠璃化したもの。文久三(一八六三)年七月大坂いなり社内東小家を最後に、中央での通し上演は途絶える。
淡路座では近代まで伝承され、淡路源之丞座、市村六之丞座の床本が現存する。外題は「自来也物語」のほか、「敵討自来也(物語)」とするものが多い。淡路の伝承曲は、三段目(原作の「自来也住家」)が豊澤町太郎の弾き語りによって残されている。
〔神津〕

花筏巌流島(はないかだがんりゅうじま)

文化七年(一八一〇)九月・大坂荒木芝居初演。作者佐川藤太。通し本の題簽に角書「増・補」と示し、また跋文に記すように、延享三年(一七四六)十一月大坂豊竹座初演の同名作(作者は浅田一鳥・但見弥四郎・松屋来輔)の改作である。
中央での再演記録は不明であるが、淡路座では近代に至るまで伝承され、市村六之丞座、淡路源之丞座等の床本が残る。
〔神津〕

2.淡路座において増補・改訂がなされているもの

東鑑富士の巻狩(あずまかがみふじのまきがり)

淡路座独自の上演外題で、享保十九年(一七三四)豊竹座初演『曽我昔見台』と寛延元年(一七四八)豊竹座初演『東鑑御狩巻』の取り合わせ作。現存諸本(諸本の外題は一定せず、単に「富士の巻狩」とするものが多い)に拠ると、基本的に二段目までは『東鑑御狩巻』そのままで、三段目以降、二作を複雑に合成しながら詞章を改変していることがわかる(『淡路人形浄瑠璃資料館所蔵資料目録1 浄瑠璃本』参照)。但し、明治二十一年(一八八八)四月徳島半田における上野源左衛門座上演の「東鑑富士の巻狩」は、段名によって判断すると、ほぼ『東鑑御狩巻』の通りに上演されていると推定され、本格的な取り合わせはそれ以降である可能性が高い。その場合、もともと「東鑑富士の巻狩」は『東鑑御狩巻』の改題、あるいは通称ということになるだろう。
伝承曲として「富士の巻狩三ノ切」の録音(竹本朝之助・豊澤町太郎)が残されているが、これはほぼ『曽我昔見台』三ノ切通りのもの。一方、引田家の浄瑠璃本に明治三十年の記載がある「東鑑冨士巻狩/三段目の切」(13-01)が残るが、こちらは『東鑑御狩巻』三ノ切である。このことからも、両作(『曽我昔見台』『東鑑御狩巻』)が近代に至るまで別々に伝承されてきたことがわかる。
〔久堀〕

桜姫賤姫桜(さくらひめしずのひめざくら)

宝暦十年(一七六〇)豊竹座初演、若竹笛躬・豊竹応律・中邑阿契による合作。中央劇団による再演は初演年における伊勢古市の例しか残らないが、信州伊那谷古田への伝播が確認できる(飯田市美術博物館調査報告書2『伊那谷の人形芝居』﹇文書目録編﹈参照)他、淡路源之丞座の床本十二冊が兵庫県立歴史博物館に所蔵されており、初演の後、近代に至るまで淡路座によって上演され続けたことがわかる。
但し右の淡路源之丞座床本によると、本文は原作通りではなく、「貳段目の口」には『児源氏道中軍記』(延享元年竹本座初演)の二段目中・切が、「四段目の切」には『近江国源五郎鮒』(安永八年北堀江市之側芝居豊竹此吉座初演)四段目切が、それぞれ改訂して用いられている。両作品とも中央での上演は稀なものであり、注目される。
〔久堀〕

賤ヶ嶽七本槍(しずがだけしちほんやり)

淡路座独自の上演外題で、天明六年(一七八六)道頓堀東芝居初演『比良嶽雪見陣立(ひらがだけゆきみのじんだて)』と寛政十一年(一七九九)同芝居初演『太功後編の旗揚(※)(たいこうごにちのはたあげ)』の取り合わせ作。別外題「太功(閤)旭花山」。
天保十三年(一八四二)四月徳島二軒屋浦における上村源之丞座興行(元木家記録)では「大功旭花山三切」「比良嶽三段目」「賤ヶ嶽七本槍」が別々に記され、これは『後編の旗揚(※)』八冊目までと、『比良嶽』三段目、『後編の旗揚(※)』九冊目が上演されたものと推定される。すなわち元々「大功旭花山」は『後編の旗揚(※)』の改題、「賤ヶ嶽七本槍」は勢揃から勝家切腹の場を表す通称であり、取り合わせが常態化した後、全体を表す題として「太功旭花山」と「賤ヶ嶽七本槍」の両者が定着したものと思われる。 諸記録で外題を辿ると、安政四年(一八五七)閏五月淡路洲本の中村久太夫座興行では「太功記花山賤ヶ嶽」、慶応元年(一八六五)九月道頓堀竹田芝居小林六太夫座興行では「賤ヶ嶽七本鎗 大功記旭の花山」、明治五年(一八七賤ヶ嶽二)九月若太夫芝居中村久太夫座興行では「太功旭花山賤ヶ嶽七本鎗陣立」となっている。但し『元木家記録』において、安政四年(一八五七)上村源之丞座興行を記録する部分に「初日賤ヶ嶽」と記されるので、この頃には「賤ヶ嶽」が通称になっていたと推測できる。明治後半以降は専ら「賤ヶ嶽七本槍」が定着する(「やり」の表記は「鑓」「槍」など一定しない)。
取り合わせの構成は、三段目相当部分が『比良嶽』三段目そのままで、残りは主に『後編の旗揚(※)』に基づき、一部『比良嶽』の詞章を用いてまとめてある。但し有名な「勢揃」(山の段)以降の詞章には、かなりの書きかえが見られる。
※「旗揚」は旧字。【旗】は「竹かんむり」に「旗」/【揚】は「風にょう」に「昜」
〔久堀〕

《中央で近代以降も伝承されているが、淡路座において増補・改訂がなされているもの》

軍法富士見西行(ぐんぽうふじみさいぎょう)

延享二年(一七四五)竹本座初演、並木千柳・小川半平・竹田小出雲による合作。中央では明治九年(一八七六)松島文楽座での上演を最後に伝承が途絶えるが、淡路座ではそれ以降も本作を初段から三段目まで伝承した。現存する床本では、三段目までの内、初段に『傾城阿古屋の松』初段の切(一の谷)が混入しており(序切「惟盛館の段」)、取り合わせ上演がなされていたことがわかる。上演記録を辿ると、天明から寛政期頃の市村六之丞座番付では原作通りの上演と推定されるのに対し、嘉永元年(一八四八)道具屋谷右衛門座上演では取り合わせ上演となっており(酒井家文書)、おそらく幕末期に改訂されたものと推測される。
淡路での伝承曲は豊澤町太郎により三段目切(江口の里)が残されている。
〔久堀〕

嬢景清八島日記(むすめかげきよやしまにっき)

『嬢景清八島日記』は明和元年(一七六四)豊竹座初演。豊竹越前少掾追善浄瑠璃として、越前少掾生前の語り物を取り合わせて構成した作品である。主に三段目(もと『大仏殿万代石楚』三段目)が伝承された。
淡路座が伝える本作の諸本には明和七年(一七七〇)豊竹座初演の『源平鵯鳥越』四段目が混入している。いつからこの取り合わせ上演が始まったのか定かではないが、明治十四年(一八八一)徳島半田村市村六之丞座興行では、この形の上演であったことが確認できる。新見貫次氏が紹介する淡路での賃児芝居上演記録に「天保十亥正月義経鵯越里越(ママ) 三段目」とあり、淡路座においても『源平鵯鳥越』が伝承されていたことが推測できる。
また文政七年(一八二四)十月、徳島三好郡芝生村における上村日向掾興行では、「嬢景清八島日記五段続」が上演されているが、二段目として『傾城阿古屋の松』(宝暦十四年初演)の二・三段目が挿入されている(酒井家文書)。
取り合わせ上演自体は中央でもなされるが、右のような取り合わせは淡路独自のものと言える。
〔久堀〕

玉藻前曦袂(たまものまえあさひのたもと)

今日伝承される『玉藻前曦袂』は、文化三年(一八〇六)三月大坂御霊宮境内芝居初演で、角書に「絵本増補」と付された増補作品。読本『絵本三国妖婦伝』に拠りつつ、寛延四年(一七五一)豊竹座初演の同名作を改作したものである。
淡路人形座は一九七〇年に国立劇場で本作を通し上演しているが、その後「道春館」(三ノ切)や「七化け」(原作の五段目「景事化粧殺生石」)を除き、多くの段の伝承が途絶えた。しかし平成二十二年一月の兵庫県立芸術文化センター公演では、四段目「神泉苑」が約四十年ぶりに復活された。本作は文楽でも、七四年、八二年と復活通し上演されているが、「神泉苑」や「景事化粧殺生石」は、一部原作と異なる淡路版の台本を襲用したものである。
この原作との相違はいつ頃生じたのか定かではないが、例えば「神泉苑」では、原作では描かれない本物(人間)の玉藻前と狐の入れ替わりを場面化し、段の前半に増補するなど、かなり大きな改変が見られる。「七化け」も基本的に原作に拠りながらも、独自の詞章を含んだものとなっている。 「七化け」とは、七変化、すなわち七役早替りのこと。大坂では番付に「…役早替り」と記すことが多いが、淡路座では特に狐の変化を「…化け」と称するのが定着していた。『玉藻前曦袂』における人形の早替り演出は、淡路座だけでなく大坂でも盛んだったが、人形主体の淡路座で特に見せ場として伝承され、「七化け」と言えば主に本作を指すようになった。
もっとも「七化け」とは上記の通り本来演出名であるから、「景事化粧殺生石」に限らず同作の別の段(「神泉苑」「廊下」等)で同じく七役早替りを見せることもあるし、別の作品『契情小倉の色紙』で「三吉狐七化け廿三度の早替り」を演じた例(弘化元年九月、吉川安五郎座)もある。また七役に限らず、「十二ばけはやかわり」となることもあった(弘化二年九月、吉田伝次郎座『玉藻前曦袂』「大切けいごと」)。
〔久堀〕

生写朝顔話(いきうつしあさがおにっき)

天保三年(一八三二)正月、大坂稲荷社内芝居での初演興行において、未完のまま上演されたと推定される作品で、山田案山子作。その十八年後の嘉永三年(一八五〇)、正本に当たる『補生写朝話』が刊行され、この増段階で翠松園主人によって五段目相当部分(「帰り咲吾妻の路草」「駒沢上屋鋪」)が増補された。しかし淡路座は、正本刊行以前の弘化期に阿波や紀伊で本作五段目(「道行」「駒沢屋敷」)を上演しており、正本の方がむしろ淡路座上演詞章を襲用したものと推定される。
淡路版「道行」の大きな特徴は、目的地が鎌倉となっている点で、大坂に向かう正本の「帰り咲吾妻の路草」とは逆に、深雪と関助は東海道を東に進む。そして次の場面は本来「駒沢鎌倉屋敷」となるのだが、現存する吉田伝次郎座旧蔵本「祝言場の段」は鎌倉の大内之助屋敷を舞台とする(以上、付録翻刻参照)。これはおそらく明治期に改変されたものであろう。
〔久堀〕

淡路座で創作、初演された作品

《近世に初演されたもの》

今代源氏東軍談(いまよげんじあずまぐんだん)

淡路座の創作、初演と考えられる最古の作品。諸本は多くなく、写本『前太平記今様姿』1点と、板本・抜き本『今代源氏東軍談』6点ほどを知る。寛政七年(一七九五)の書写である『前太平記今様姿』によって五段続の全体の内容が判り、寛保三年(一七四三)五月・大坂竹本座初演『丹州爺打栗』の改作と知られた。『今代源氏東軍談』は四段目ノ切「水責の段」を抜き書き、刊行したもの。
上演記録としては明和八年(一七七一)越前での「今様源氏東軍談」が古く、成立は寛保三年以後、明和八年以前と考えられる。抜き本『今代源氏東軍談』の刊行は遅く、板元の活動時期および住所表記から、天保九年(一八三八)以後、嘉永三年(一八五〇)以前に初板されたと推定できる。淡路座の初演作品で、中央で出板された最初例。
淡路座では、久堀裕朗氏「近世淡路座初演浄瑠璃の整理並びに淡路座興行資料紹介」(演劇研究会口頭発表)に拠れば、文政九年(一八二六)二月徳島での興行記録が遅いが、右の抜き本刊行頃までは現行曲として生きていたものであろう。そのためか淡路座独自の伝承曲としては珍しく三味線譜が、右の抜き本のいくつかに遺されている。
神津武男著『浄瑠璃本史研究』に、「水責の段」の翻刻がある。
〔神津〕

二名島女天神記(ふたなしまおんなてんじんき)

同名実録体小説の浄瑠璃化で、『敵討肥後駒下駄』と同じく幕末期の淡路座初演作品。吉田伝次郎座旧蔵「二名島女天神記山本屋鋪段」(淡路人形浄瑠璃資料館、新見家08-040)の書き込みにより、少なくとも安政二年(一八五五)四月以前成立。また平成十七年(二〇〇五)淡路人形協会新収の吉田伝治郎座本作上演番付(神津氏、弘化三〜五年頃と推定)により、弘化期以前成立の可能性が高い。安政四年(一八五七)閏五月洲本での中村久太夫座上演では「増補二名島女天神記」とあり(『末代噺の種』)、二段階の成立が想定できる。後に『宇和島女天神記』『宇和島天神記』の外題が定着した。
宇和島伊達藩のお家騒動を脚色した内容で、悪臣大橋右膳に暗殺された家老山辺(山本)清兵衛が和霊大明神として祀られるまでを描く。「女天神記」という表題は、山辺家が菅原道真の後裔で、清兵衛の敵討を志す老母と妻が美濃養老の滝において自らの命を犠牲に願掛けを行った結果、落雷により大橋一味は力を失い敵討も成る、という内容に拠る。
〔久堀〕

敵討肥後駒下駄(かたきうちひごのこまげた)

淡路座の新作浄瑠璃で、実録を浄瑠璃化したものである。吉田伝次郎座旧蔵「肥後駒下駄左司馬屋鋪段」(淡路人形浄瑠璃資料館、新見家13-051)の書き込みにより、少なくとも安政五年(一八五八)六月以前の成立が確認される。また実録との比較により更に嘉永五年(一八五二)以前成立の可能性が高く、かつ『生写朝顔話』の影響を受けているので天保三年(一八三二)以降の成立であることがわかる。万延元年(一八六〇)には、竹本長子太夫(後の五世竹本弥太夫)が中村久太夫座の巡業にスケ(助演)として参加し、本作二段目切を語っている。
肥後駒下駄物の実録に基づく内容で、播州出身の浪人向井善九郎が、剣術修行先の肥後で騒動を起こし、その過程で肥後細川家中の侍に駒下駄で額を割られた意趣を、善九郎が後に晴らすまでの経緯と、善九郎の引き起こした騒動が元で、善九郎を息子源之助の剣術指南役に抱えていた青柳左司馬が八坂源治兵衛に討たれ、善九郎の助力を得て源之助が父の敵討を果たすまでの経緯が描かれる。三・四段目は実録にない場面で、先行浄瑠璃『箱根霊験躄仇討』や『生写朝顔話』の内容に拠る創作。また四段目には、当時の清正公信仰(加藤清正を神格化する信仰)の隆盛を背景に、源之助せいしょうこうしんこうが返討に遭うところを清正公の「御影」によって救われるという霊験が仕組まれている。
〔久堀〕

《近代以降に初演されたもの》

鹿児島戦争記(かごしませんそうき)/日清戦争記(にっしんせんそうき)/
倭仮名北清軍記(やまとがなほくしんぐんき)/日露戦争記(にちろせんそうき)

明治期、大きな戦争が起こる度に、淡路座はこれを題材とした際物を創作し、各地で上演した。特に淡路源之丞座(前身は上野源左衛門座、明治二十六年(一八九三)に改称して志筑源之丞座、明治二十九年(一八九六)再度改称して淡路源之丞座)で盛んだったらしく、淡路人形浄瑠璃資料館収蔵本もすべて同座旧蔵本である。『鹿児島戦争記』は西南戦争、『日清戦争記』は日清戦争、『倭仮名北清軍記』は北清事変(義和団事件)、『日露戦争記』は日露戦争の舞台化である。
この内、『日清戦争記』は同戦争終結前の明治二十七年(一八九四)旧十月頃、川上音二郎一座を初めとして新旧劇団が各地で日清戦争劇を競演した時期に初演されたもの。更に同作は翌年、下関講和条約が締結され戦争が終結した四月に増補されている。増補の作者は志筑源之丞座旧蔵本の記載によって「赤松烏声(戸右衛門)」であることがわかる。この人は津名郡志筑村出身で、他に『猿ヶ島敵討物語』(明治二十八年十月大阪稲荷座初演)や『親鸞上人一代記』(同年旧十月和泉国にて上演。兵庫県立歴史博物館に志筑源之丞座床本あり)などの作品がある。
なお引田家資料には「日露戦争記」と題される戦況記録が残されており、このような書きとめが浄瑠璃執筆の際の資料になったものと推定される。
〔久堀〕

二葉楠(ふたばのくすのき)

淡路人形芸術復興協会を起こした中野篤一郎は、大阪の叶太夫(のちに七代春太夫となる、『此君帖』の編者の叶太夫であろう)を作曲者として、戦時演目を遺した。
v昭和十年(一九三五)十一月の刊記を有する「二葉楠久子の方意見の段」は、表紙に「金波楼主人作」(海軍中将小笠原長生の筆名)、「叶太夫作曲」と掲げるが、奥付には「著作権並作曲権版権所有者」および「発行者」として、中野篤一郎のみを掲げている。
v内容は、桜井の駅で大楠公(楠正成)に別れたあと、その子・正行は河内国観心寺で父の敗軍の報せに接する。母・久子の方に切腹を留められ、後日の挙兵を決意するという話。 同作・新見家08-090には、昭和十八年(一九四三)十一月徳島での小林六太夫座興行のチラシが残る。当該チラシに、楠正成は「「七度生れ変つて国を護らん」と忠烈楠公の遺訓を慕つて」云々とみえるように、日中戦争・太平洋戦争下、盛んに賞揚され、戦時教育に利用された。文楽では昭和十二年四月「大楠公」を上演。
〔神津〕

乃木将軍(のぎしょうぐん)

同作・豊澤町太郎058-03に、「昭和十二年夏・堀内中将閣下原作・竹本叶太夫作曲・仝十三年二月十三日沼島村戎座ニテ北支事変と共に初公演」との書き入れがあり、昭和十二年(一九三七)夏の成立か、と知られる。
同作・新見家08-088の内題には、「乃木将軍妻返へしの段」とあり、左に「陸軍中将堀内文治郎閣下原作竹本叶太夫作曲」と記す。刊記には「著作権所有」者として「中野篤一郎」のみを記す。
内容は、香川県善通寺第十一師団長として赴任した乃木希典が、下士官の芸者遊びに憤るも、「日清戦争で自分を庇って死んだ戦友の妹であり、身を売って病身の父を養う窮状を救うために夫婦約束をした」と聞き、軍人の鑑と称え、後日媒酌することを誓う、という話。段名は、逗留先である金倉寺を訪ねた妻を、乃木が対面もせず追い返した件に因む。二人の女性の自由意志を無視する点に時代性が感じられる。
〔神津〕

慈母の書置(じぼのかきおき)

同作・新見家08-094の巻末に「昭和拾三年六月廿四日に書書主愛媛県伊予郡中旭町竹本須磨太夫」「徳島市新栄町ニテ上村源之丞興行節書」「師匠大阪竹本久国ニ六月二十一日より稽古致し十日間ニテ仕上し物也」とあって、昭和十三年(一九三八)六月頃の成立と知られる。上村源之丞座の初演ヵ。
ただし時間設定としては、昭和十二年七月七日の「北支事変」盧溝橋事件、八月九日の「上海事件」第二次上海事変直後で、九月招集の七十二回貴族院議会につき触れるところがあり、十二月七十三回議会に触れないので、昭和十二年九月から十一月までの時期に作文されていたかと考えられる。
内容は、徳田米治郎が招集され、病身な老母の世話を、六年前に離婚した妻に頼むところから始まる。妻は「昔の恨も忘れ」「銃後の守りは国民の義む。誰彼の差別は有ません。」と快諾。喜んで帰宅すると、老母は自殺していて、書置に「私が死ればそ(な脱)たも心残りなく。御国のお役に立道理軍神への血祭りぞや。小なる親への孝を捨て。大成君への忠義を立よ。」と息子を励ますという話。
愚かしい内容ながら、「侮日抗日気勢を上て各方面。挑戦的の行動に。堪へ兼て我軍も。最早帝国自衛の為。且は正義人道のため。」云々との構文が、二〇一〇年後半以後にも見受けられるようでもあり、気鬱な印象が残る。
〔神津〕

興亜の礎(こうあのいしずえ)

昭和十五年(一九四〇)八月成立『興亜の礎』は、内題に「興亜の礎作者中野先峰・作曲大阪竹本叶太夫」と示すように、「中野先峰」すなわち中野篤一郎と、叶太夫の提携に成る。ただし「著作権所有」は、中野篤一郎ひとりを記す。
内容は、株式相場に手を出し破産した男に、高利貸しが返済を迫る所へ、離婚した妻が偶然来合わせ、郵便貯金を投げ出して、窮状を救う、という話。やはり偶然来合わせた郵便局長が、二人の再縁を促すと、高利貸しは脈絡もなく旧悪を悔い、廃業を申し出る。これを喜んだ郵便局長は、大東亜新建設の意義を説き、「若し御相談があらば郵便局へ御出下さい。決して御遠慮はいりません」と言葉を結ぶ。これまで一家の困窮を見捨ててきた人物だけに、何も相談したくないというのが読後感。
作中、登場人物に「貯蓄の金が飛行機や戦車や鉄砲玉に成ると思へば。考へやうに寄つては国債を十枚を買へば。敵兵の首を一つ取つたのも同じ意味ではありますまいか。貯金は銃後国民の義務だと思ひます。」と言わせている。わが国において「郵便貯金」や「国債」というものが果たしてきた、暗い役割を考えさせる作品。
〔神津〕