南あわじの伝統芸能

美しい自然に恵まれ、四季の変化に富んだ日本には様々な伝統行事や伝統芸能があります。日本人は森羅万象に神の存在を感じ、それら多くの神々や、祖先神、さらには外から招いた神々を折々にもてなし、豊穣や繁栄を祈りました。大自然や神々との共生の中から独自の伝統行事や伝統芸能が生まれました。淡路島では、神社の祭礼で、神輿やだんじりが練り歩き、だんじり唄、神楽、獅子舞、踊りなどの神事芸能が奉納されます。淡路人形浄瑠璃も神事芸能として生まれたもので、今も自然や神を大切にする淡路島の人々によって支えられています。

淡路だんじり唄(あわじだんじりうた)

だんじり唄の起源は、明治の中頃、淡路島に布団だんじりが入った時期からで、浄瑠璃の山場をだんじり唄に作り変え、多様な唄ができ、吉田節とか、市節と呼ばれた。

阿万の西町から発見された「檀尻歌集西組聲楽団(せいがくだん)」(昭和五年、編者榎本長平)によると、明治三十一年に「妹背山」「百度平(ずんどへい)」「一の谷嫩(ふたば)軍記」、同三十四年に「源平布引の瀧(たき)」、同三十八年に「絵本太功記」「腰越」などが上町の榎本善平(光月)によって脚色され、大正時代、現在最もよく歌われている「玉藻前曦袂(たまものまえあさひのたもと)三段目」(玉三)を脚色したのは西町の村上亀平と記されている。だんじり唄は口伝えが主で、時代とともに、また地域によって歌詞や歌い方が変化してきたが、玉三は、歌詞も節回し・言葉も作られた当時のままで歌われている。

大正時代から昭和初期には、各地域で様々な唄が作られ、阿万の人が、旧三原郡内各方面の普及・指導に当たったので、これが「阿万節」といわれるようになった。昭和十三年に発刊された「阿万郷土誌」の中には、阿万地区九部落にそれぞれ四、五外題の持ち歌があったと記録されている。この時期が戦前におけるだんじり唄の最も盛んな時期であったのだろう。

昭和三十年ごろから、経済も安定し、布団締めや胴巻きが金綱に変わり、豪華になると同時に唄にも力を入れるようになり、盛んな時代が続いた。

しかし、高度成長期には、若者の意識の多様化、新しい芸能への関心の高まりなどが顕著になり、昭和四十年ごろから、だんじりを出しても、唄が歌えない地域もでき、だんじり唄の継承が危ぶまれた。「地域の民俗文化であるだんじり唄が寂れてしまう」との声も受け、旧三原町や南淡町で「だんじり唄競演大会」の開催、だんじり唄全集の発刊など行ったが、復活は難しかった。

時代の風潮を憂えた森勝氏(当時財団法人淡路人形協会理事長)や、萩原重幸氏(当時県立淡路文化会館長)らの発案で、平成元年から「淡路だんじり唄コンクール」が開催された。出演団体数は急激には伸びなかったが、「淡路だんじり唄師匠連絡協議会」(後に「淡路だんじり唄振興会」と改称)の結成、だんじり唄愛好グループの海外出演、女性による愛好グループの誕生などで、復活の兆しが見え始め、コンクールの出演団体も三十を超えるほどとなった。

更に近年は小学校の総合学習の取組みで、子どものときからだんじり唄に親しみ、だんじり唄の継承活動としても期待されている。英知大学教授興津憲作先生は、阿万地区に生れ、「淡路だんじり唄」の研究書の発刊、講演会、コンクールの審査員、島外への唄の紹介等を通じて、出身地の文化発展にに大きな貢献をされた。

明治に発祥しただんじり唄が、幾たびかの盛衰期を経て、今日、また、活況を呈し、ふるさとを代表する伝統芸能のひとつとして、誇りを持って、歌い継がれている。

国指定重要無形民俗文化財

阿万の風流大踊小踊(あまのふりゅうおおおどりこおどり)

阿万の亀岡八幡宮は、古来から鎮座していた西町亀が岡の松浦高良神社に1250年前に石清水八幡宮より勧請され、1232年に西町から現在地に遷座した。由緒ある歴史を誇り、数多い神事に行われる珍しい行事が伝承されている。

中でも上町の氏子によって奉納される風流踊りは日照り続きで困った村人が雨乞いをし、願いがかなった後、「願解き」として、雨への感謝、五穀豊穣・郷土繁栄の祈りと感謝をこめて神に奉納されるようになったものである。多額の経費を要するために「百石踊」とも言われた。

資料として最も古いのは、1811年刊の淡路島の地誌「淡路草」巻八で、

「是は旱魃の時八幡宮へ雨を祈るに、此踊を踊らん事を告げて願を籠めれば必ず奇瑞あり、よって秋に至り願解きとして踊るという。踊子四十人余いずれも木綿装束にて、大踊前踊は二行、踊十三人充、小踊は十三人也。大踊は白き帷子に白き手拭をかぶり、大なる団扇(長さ四尺余、幅二尺余)を持って踊る」

とある。また、森川定雄氏がまとめた『阿万風流踊小誌』8昭和46年刊)には、残存する最古の狂言台本「雷狂言」の表紙に「天保三辰八月十一日」の年号があり、この年に演じられたことが推定される。また、小踊歌本の奥書に、

「昔嘉永六みづのへの丑の歳梅雨の下旬より旱徒ゞき、水無月をこえて文月にいたれどもいさヽかの村雨も催さず尚旱魃いやまして立毛いよいよ迷惑せり・依之一統心を一にして御宮に参籠し精進汐垢離身を清め、三日の間真言を唱え雨を奉乞とも其もよひもなく、籠はつゐに同じき月の初めの三日評議し、往古より伝はる所の風流踊を奉籠セリ、予も愚親より謳の役堂る伝をもって此般其役を蒙りぬ、当村伊三郎主に入門し、其の唱歌の秘密を受けたり、さればこの本後々にいたり容易に他見旦は廉略もすることなかれ」

と記されており、1853年には確実に雨乞いとして演じられている。また、この歌本についていた紙片には一カ月ほどかけて練習を行ったこと、公儀が穏便だったこと、九月には願解きの興行を行ったことが書かれていた。

大踊の衣装や楽器、歌詞や持ち物から推定される発祥の時期は室町中期から桃山期で、声明がかった緩やかな曲は優雅、コキリコという竹を打ち合わせる楽器を使う。小踊は江戸時代中期から後期のもので、附木が入り歌舞伎舞踊の様相があり、三味線の影響を受けている。室町末期か桃山時代に傀儡師、呪師、猿楽法師、山僧等が流れてきて阿万の村人に教えたものと考えられている。

氏子の中でも長男で未婚の者だけに踊る資格があったのは、他の地域に伝えられるのを防ぐ配慮であったようだ。明治5年の記録によると

「この風流踊之儀往き昔より当村に秘事伝来し、尤も八幡講と称し、正、五、九月羔会合する・・・。後代に伝へん事を希う所也。何卒大切にして他見を不許秘すること第一なり。依て此段証し置く者也」

とある。

ささら踊り(ささらおどり)

平成20年3月7日 南あわじ市無形民族文化財に指定された。
府中八幡神社の神事の1つとして古くから伝わっている芸能。その起こりははっきりとはしていないが、五穀豊穣を願う田楽の名残を残しているといわれ、いくつかの歴史書に採りあげられています。これが始めて出てくるのは、「淡路常磐草」(仲野安雄著 享保15年(西暦1730年))で、「…仲秋の祭に流鏑馬角力などあり又法師異服異笠を被り腰に太鼓を付て走る田楽の遺風にや」とある。

その後の「淡路草」(藤井容信・彰民著 文政8年(西暦1825年))「堅盤草」(渡辺月石著 天保3年(西暦1832年))、「味地草」(小西友直・錦江著 安政4年(西暦1857年))にも書かれている。また、天文12年(西暦1829年)には、眞野和泉(暁梅)により「伝来の巻物」が書かれ、今に伝えられている。この巻物に書かれている所作と今踊られているものとを、指導者にくらべていただいたところ、ほとんど同じであることがわかった。

ただ、「秋の田の刈りあけゆけば露しげり、下葉のおん露にわれ濡れる濡れる」という唱歌は、今は歌われていない。いつから歌われなくなったかは、わからない。また、神事として行われていた「流鏑馬」も行われていない。 角力は、昭和51年(西暦1976年)に「三原郡少年相撲府中大会」(現在は少年相撲府中大会)として復活し、現在に至っている。

このささら踊りとよく似たものに、島根県大田市水上町福原の福原八幡神社に伝わる「シッカク踊り」がある。この「シッカク踊り」は、島根県の無形民俗文化財に指定されている。水上町に伝わる社伝によるとシッカク踊りは平安時代の天永2年(西暦1111年)、当時の摂津国(現 神戸市)福原から祭祀を遷し祀った時、踊ったのが始まりとされている。踊りは素朴で平安期の名残りをとどめており12名の踊り子により演じられる。シッカク踊りでは、ささら、びんざさら、太鼓が使われている。

これらのことを総合すると、府中八幡神社の「ささら踊り」の起源も、上記の文献等が書かれた時代よりも遥かに古く、平安時代にまで遡るのが妥当であるかもしれない。いずれにしても、長い伝統のある民俗芸能であることは間違いない。

大久保踊り(おおくぼおどり)

南あわじ市八木地区で江戸時代中期頃より盂蘭盆や雨乞いに踊られていた。起源は天明年間(1781~89)に飢饉の窮状を代官所に訴え、処刑された百姓、宮村の才蔵の霊を慰める為に始められたと言われる。 大太鼓一つを伴奏にした音頭に合わせて踊る五種類の手踊りと、毛槍・太刀・鎌・番傘などを使った六種類の道具踊りがある。各種類にそれぞれ歌詞・太鼓の打ち方や衣装・持つ道具が変わる。歌は浄瑠璃に因んだ物が多く、傘踊りでは「薫樹累物語土橋の段」を演じる。

情緒的なものや勇壮闊達なものもあり、大久保踊り保存会だけでなく、兵庫県立三原高等学校の体育祭、南あわじ市立三原中学校の文化祭、南あわじ市立八木小学校の運動会でも踊られ、老若男女楽しむことができる。振り付けは佐尾寺住職、教雲の指導によるといわれ、音頭には、端音頭(手踊り)・切音頭・五尺節(道具踊り)の三種がある。淡路の代表的な民俗芸能の一つとなっている。